競艇史に名を刻み、今現在もボートレースの発展に尽力する「植木通彦」。
重大事故から復活したことで”不死鳥”の異名がつけられ、数少ないモンキーターン巧者として数々の偉業を達成。SGではグランプリV3含む通算10回の優勝を記録しています。
往年のファンなら彼の凄さをご存じでしょうが、中には名前は知ってるけど…という人も大勢いるはず。
そこで今回は、レジェンド植木通彦の生涯について、デビューから引退までの全てを解説したいと思います。
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植木通彦とは?
植木通彦は福岡県北九州市出身、福岡支部のボートレーサー。
高校中退して本栖研修所へ入所し、1986年11月に福岡でデビュー。その後、24歳でSG制覇するなど輝かしい実績を残しますが、39歳という若さで2007年7月に引退を表明。
植木通彦の公式プロフィール
公式画像 | |
名前 | 植木通彦(うえきみちひこ) |
登録番号 | 3285(59期) |
生年月日 | 1968年4がつ26日 |
身長/体重 | 165㎝/51㎏ |
出身/所属 | 福岡県/福岡支部 |
デビュー日 | 1986年11月21日 |
引退日 | 2007年7月18日 |
競艇選手を目指したきっかけ
幼い頃から父に連れられ競艇場によく行っていたそうです。ただ、選手への憧れはなく、高校を出てどこかの会社に就職するつもりだったらしい。
転機が訪れたのは高校2年生の時。父の建設会社が業績不振に陥り、両親の夢だったマイホームを断念。そんな両親に親孝行したい気持ちから「競艇選手になりたい」と父へ打ち明けます。
しかし、父から「プロの世界は甘くない。才能を持った人しか成功できない」と猛反対。
諦めがつかなかった植木は、野球部の顧問であり担任でもあった田中靖人さんに相談。当初は反対されましたが、最終的に背中を後押ししれくれたといいます。
その後、父を何とか説得し、1回きりのチャレンジがダメだったら高校に戻るという約束で養成所試験を受験。そして、一発で試験に合格し、レーサー人生の第一歩をスタートさせます。
両親の前で卒業記念競走2着
17歳で本栖研修所に入所した植木通彦。
1年間の厳しい訓練を乗り切り、両親も駆け付けた卒業記念競走では優勝戦2着。1986年秋に研修所を卒業し、晴れてプロの競艇選手としてデビューを果たすことになります。
同期(59期)主な選手
2024年4月現在、植木通彦の同期(59期)は現役選手が8名。
福岡支部の重鎮となった今村暢孝は今もなおA級を守り続けており、養成所チャンプの渡邊伸太郎、リーグ戦勝率1位だった齋藤勇も一般戦を中心に活躍中です。
モンキーターン「榎木祐介」のモデル
人気を博した河合克敏の競艇漫画「モンキーターン」。登場する主要人物”榎木祐介”のモデルが植木だといわれています。
植木通彦といえば、現代の競艇ではスタンダードな乗り方となっている「モンキーターン」を早い時期から取り入れた選手としても有名。
モンキーターンは36期の飯田加一氏(2012年引退)が考案した手法。植木はこのターンをいち早く習得し、1993年の総理大臣杯で見せたモンキーターンは大きな話題となりました。
植木通彦の師匠・弟子は?
植木通彦の師匠は、1968年の鳳凰賞(現クラシック)など、SGタイトルを3度制した福岡支部6期「岡本義則(おかもとよしのり)」。
現役時代は一匹狼的だったらしく、弟子入りを志願するも聞き入れてもらえず。そんな中、植木の父が岡本の自宅の屋根瓦を修復したことに感謝して、植木の弟子入りを認めたそうです。
弟子は福岡支部75期「桂林寛(かつらばやしひろし)」。
竹井奈美(弟子)との師弟婚で話題になった選手。G2以上のタイトルはありませんが、2002年SGクラシックで自身初の準優を果たしています。
師匠の岡本さんは、史上4人しか到達していない3000勝レーサー。
131期「植木美帆」は娘さん?
2022年11月にデビューした「植木美帆」。
年齢的に「植木通彦の娘?」と勘違いしてもおかしくありませんが、名字が同じなだけで赤の他人。
ちなみに、植木通彦は結婚しており、嫁・子供3人の家族構成。ネットでは「植木通彦 息子」と気になるワードが出てくるものの、ボート界で活躍しているのは本人のみです。
植木通彦の引退理由
デビューから20年が過ぎた2007年、突然すぎる引退表明。SG・G1で戦える状態だったのになぜそのような決断を下したのか?
2007年クラシック優勝戦でまさかのF
2007年は年始から好調をキープ。一発目のSG(3月総理大臣杯)でも予選で3勝をマークし、準優も逃げ切って自身11回目のSG優勝に王手をかけます。
誰もが植木の優勝を予想したファイナル。
思い切った踏み込みでイン逃げ成功かと思いきや、判定はコンマ01のフライング。
このFで1年間のSG出場停止となり、グランドスラムまで残り1つに迫っていたMB記念、地元開催の賞金王決定戦が夢と消えてしまいます。
現役ラストレースは通算4500走目
フライングを切った総理大臣杯後もレースに出場し続けます。しかし、4月の住之江で優出3着、5月の福岡は準優1号艇で敗北する”らしくない”結果に。
すでにこの時、引退のタイミングを見計らっていたという植木。
後に分かったことですが、2007年7月20日に登壇した”現役勤続20年の表彰式”の後、引退会見を開くと決めていたようです。
現役最後のレースとなった18日の鳴門一般戦。デビューからちょうど4500走目、ほぼ誰も知らなかったラストレースを勝利で飾り艇界を去りました。
20年間で引退するつもりだった
永年功労者表彰式の終了後、同じホテル内で行われた植木通彦の引退会見。実はこの会見自体、事前に公表されていなかったとのこと。
植木が口にした引退理由は…
桐生での再起を危ぶまれる事故の後、お世話になったみなさんのためにも「20年間、命を懸けて走ろう」と決心しました。そしてその20年が来ました。
大ケガから復帰した際、その時すでに引退時期を決めて走っていたのでしょう。
引退後、どんな活動してる?
- 2008年:大村のボートレース殿堂入り
- 2008年:競走会の理事職に就任(現執行役員)
- 2012年:やまと学校校長に就任
- 2018年:ボートレースアンバサダーに就任
- 2019年~:ネット配信などへ出演
植木通彦は引退後の2008年、一般財団法人日本モーターボート競走会の理事職に就任。2012年よりやまと競艇学校(ボートレーサー養成所)の校長となり、2018年6月からボートレースアンバサダーに就任。
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植木通彦のキャリア通算成績
植木通彦のレーサー人生は20年8ヵ月。そのほとんどをA1級で過ごし、獲得したタイトルや賞金は艇界全体でもトップクラスの実績を残しています。
植木通彦が獲得したSGタイトル
年 | 大会 | 結果 |
---|---|---|
1993年 | クラシック | 5コース/2M差し |
1994年 | ダービー | 4コース/ま差し |
1995年 | グランプリ | 2コース/抜き |
1996年 | グランプリ | 4コース/ツケマイ |
1997年 | オールスター | 3コース/まくり |
2001年 | グラチャン | 2コース/抜き |
2002年 | オーシャンカップ | 1コース/逃げ |
チャレンジカップ | 1コース/逃げ | |
グランプリ | 4コース/まくり | |
2005年 | オールスター | 1コース/逃げ |
植木通彦は通算10回のSG優勝を達成。注目すべきは2001年のグランドチャンピオンまで、優勝戦を「逃げ以外の決まり手」で勝利しているポイント。
まだモンキーの使い手が少なかった時代、ターン速度が半端なかった証拠とも言えるでしょう。
植木通彦の生涯獲得賞金
順位 | 選手名 | 獲得賞金 |
---|---|---|
1位 | 松井繁 | 40億3100万円 |
2位 | 今村豊(引退) | 29億4144万円 |
3位 | 今垣光太郎 | 26億2350万円 |
4位 | 山崎智也(引退) | 25億9690万円 |
5位 | 瓜生正義 | 25億8840万円 |
6位 | 濱野谷憲吾 | 24億7630万円 |
7位 | 太田和美 | 23億2613万円 |
8位 | 植木通彦(引退) | 22億6186万円 |
9位 | 田中信一郎 | 21億6530万円 |
10位 | 池田浩二 | 21億3755万円 |
植木通彦の生涯獲得賞金は22億6186万円。
記事作成時点のランキングでは全体の8位。引退した選手の中では今村豊、山崎智也に次ぐ3番目の記録を残しています。
もし、50歳ぐらいまで続けていたら、獲得賞金は30憶円を超えていたかも。
現役時代の平均年収は1億円超え
レーサーとして活動した20年7ヵ月において、獲得賞金額は22億6186万円。その額を単純に期間で割ると、1年あたりの年収は「約1億1000万円」。
当時、競艇選手の平均年収は1500万円ぐらいだったと思うので、約7倍もの収入を得ていた訳です。
植木通彦が不死鳥と呼ばれる理由
1986年11月のデビューから「不死鳥」と呼ばれるようになった重大事故。その経緯を時系列で紹介します。
1986年12月の芦屋で初勝利
記念すべき初1着は1986年の大晦日。後に結婚する奥さんの故郷”芦屋”で水神祭を達成しました。
実績を積み上げる原点だったと語った芦屋競艇場。地元先輩レーサーたちに祝ってもらったのが思い出に残っていると話しています。
1989年桐生で顔面を裂傷する大ケガ
デビュー当初から頭ひとつ出た活躍を続けていた中、1989年1月の桐生で先頭を走行中に転覆。後続艇が避けきれずに接触し、プロペラで顔面を切り刻まれる大事故に見舞われます。
現在のようなフルフェイスではなかった時代。顔を守れる範囲が狭かったことも影響し、選手生命が絶たれかねない重傷を負ってしまったのです。
すぐに病院へ搬送され75針を縫う大手術。命に別状はなかったものの、全治5ヵ月の重傷で長期離脱を余儀なくされます。
復帰戦は事故を起こした桐生競艇
事故後、砕けた鼻骨は頭蓋骨を移植することで修復。顔を鋭利なプロペラで切られながら、失明しなかったのは不幸中の幸いでした。そして、懸命なリハビリで脅威の回復を遂げます。
いよいよ復帰という時期、最初に届いた斡旋は事故を起こした桐生でした。
最初は断ろうと思っていたそうですが、父から桐生で復帰することを進言。その言葉の裏には「ここで逃げれば2度と桐生を走れなくなる」というがあったとか。
そうした経緯で出場を決意した植木は、トラウマを払拭すべく最終日まで無事完走。
これがきっかけで「不死鳥」と呼ばれるように。
1997年には「平成の不死鳥」の肩書でテレビCMに登場しています。
語り継がれる黄金時代の実績
植木通彦ほどのレーサーは二度と現れないかも…そう感じる全盛期のキャリアを紹介します。
1992年九州地区選でG1初優勝
1990年新鋭リーグで初優勝を達成。翌年の新鋭王座決定戦では優出し、10月のダービーでSG初出場。勢いそのまま乗り込んだ1992年九州地区選手権にて、G1初優勝の快挙を成し遂げました。
その後も1997年・2000年・2006年を制しており、同大会のV4は師匠の岡本義則・上滝和則などと並んで首位タイとなっています。
1993年総理杯でSG初優出初優勝
待望のSG初Vは、1993年3月の戸田総理大臣杯(クラシック)。
優勝戦はポールポジションを獲得しますが、前づけが当たり前だった当時。現代の競艇だとあり得ない進入隊形にw
本番は飯田加一が1コース、モンスターこと野中和夫が3コースに前づけして植木は5コースへ。
波乱必須となった進入において、1マークを渾身の全速モンキーで内を飲み込むと、清水克一との激戦を制して単独1番手へ。それ以降は1着をキープし、デビュー6年4ヵ月にしてSG初出場初優勝を達成しました。
1994年ダービー制覇で初の賞金王に
SGレーサーの仲間入りを果たした植木通彦は、翌1994年のSG全日本選手権(ダービー)で優出。優勝戦は21歳でダービーを制した「服部幸男」も進出して大きな注目を集めました。
強風が吹き荒れる中、4コースから金子良昭・関忠志の間を突くまくり差しで1着。得意水面だと話す常滑で2度目のSG優勝を達成します。
年末の賞金王決定戦は3着に敗れますが、ダービー優勝に加えMB記念で2着に入り、初の賞金王タイトルを獲得しました。
基本的に「グランプリ覇者=賞金王」だけど、僅差の時は優勝しなくても賞金王になるケースは稀にある。
伝説として語り継がれる1995年の賞金王決定戦
”ターンの魔術師”こと中道善博と1995年賞金王決定戦で繰り広げた死闘は、競艇ファンの間で今も語り継がれる伝説の名勝負。
中道のイン戦に対して5号艇から2コースを主張。ともにコンマ04でスリットを抜け、ターンマークごとに順位が入れ替わるデッドヒートに。
最終周回の2マークで張って回った植木が僅差で勝利し、3度目のSG制覇、初の賞金王決定戦覇者となりました。
低出力モーターとなった今、こんな熱いレースは二度と見れないだろうな。
2002年は競艇史上最高額の賞金(2億8000万円)を獲得
開催月 | 大会 | 結果 |
---|---|---|
1月 | 一般競走 | 優出3着 |
2月 | G1九州地区選 | 優出2着 |
3月 | G1ダイヤモンドカップ | 優勝 |
4月 | 一般競走 | 優勝 |
4月 | 一般競走 | 優出2着 |
6月 | G1ダイヤモンドカップ | 優出2着 |
8月 | SGオーシャンカップ | 優勝 |
11月 | SGダービー | 優出2着 |
12月 | SGチャレンジカップ | 優勝 |
12月 | SG賞金王決定戦 | 優勝 |
3月の芦屋G1を皮切りに、オーシャンカップ・チャレンジカップ、さらには賞金王決定戦とSG3V。また、それ以外のレースでも好成績を収め、2002年の獲得賞金は2憶8393万円。
なお、この記録は競艇界で歴代1位(2023年末時点)、全公営競技では競輪の脇本雄太(3億584万円)に次ぐ歴代2位に君臨しています。
競艇の歴代2位は、峰竜太が2020年に残した2憶5302万円。
まとめ
もう少し現役を続けてほしかった…というのが本音。
タラればを言っても仕方ありませんが、植木通彦が引退したのはSG優勝戦に進出したすぐ後。デビューから20年が経ったベテランとはいえ、いろんな記録を塗り替えていたことでしょう。
そう思えるほど最強のレーサーでしたし、艇界を去ってから10年以上経った今でも推しの1人。これからも変わらず応援させていただきます。
コメントお待ちしてます!