競艇界が生んだモンスター「野中和夫」。
40年間のレーサー人生で残した実績は凄まじく、打ち立てた記録の数々は未だ破られていません。ただ、ボートレース世代はその偉大さを知らない人も多いはず。そこで今回は…
野中和夫がモンスターと呼ばれる理由をはじめ、あまり語られない嫁・息子、引退や現在の活動など全て解説します。
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野中和夫とは?
野中和夫は大阪府堺市出身、大阪支部のボートレーサー。
1969年3月24日に住之江でデビュー。現役時代はグランドスラム(当時のSG7つ全て制覇)を達成するなど、前人未到の記録を打ち立てて2009年12月に引退。
野中和夫の選手プロフィール
本人画像 | |
名前 | 野中和夫(のなかかずお) |
登録番号 | 2291(27期) |
生年月日 | 1944年1月1日 |
身長/体重 | 159㎝/55㎏ |
出身/所属 | 大阪府/大阪支部 |
デビュー日 | 1969年3月24日 |
引退日 | 2009年12月10日 |
妻・息子2人・娘2人の6人家族
野中家の家族構成は、妻(和子)・長男(秀晋)・次男(邦朗)・長女(美宝)・次女(和香)の6人家族。
インタビュー映像を見る限りは”優しいお父さん”に見えますが、息子・娘さん曰く「減量中は特に怖かったし、近づけなかった」と話しています。
頻繁にゴルフバックを持っていたことから、美宝さんは競艇選手じゃなくてゴルファーだと思っていたらしいw
野中一平は野中和夫の息子?
野中一平が卒業記念競走で優勝した際、表彰式で「モンスターを超えます」と発言。
当然、往年のファンたちは「野中一平の父親は野中和夫?」と話題になりましたが、実際は名字が同じなだけで血縁関係は一切ありません。
野中一平はネタで言わされた説が強いらしいw
競艇選手になる前の経歴
野中和夫は第二次世界大戦末期の1944年1月1日、焼け野原だった大阪府堺市で誕生します。
幼い頃から運動神経が抜群で、中学から始めた空手は全国空手道選手権大会(1966年)で3位に入賞するほどの腕前です。
最終学歴は日本電気技術専門学校卒業。その後、現在の三菱電機ビルソリューションズを経て、自動車整備の事業を興します。
そんな中、24歳の時に運命的な再開を果たしたのです。
親友「横山やすし」がきっかけで競艇の道へ
野中和夫の人生を一転させたのは、堺市立旭中学校時代の同級生であり親友「横山やすし」さん。20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれた人物です。
大の競艇好きだった横山やすしに誘われ、自動車整備をしていた24歳の時に本栖研修所を受験。近視だった横山は不合格、野中は合格という結果に。
横山やすしがきっかけをくれなければ、モンスター野中和夫は誕生しなかったでしょう。
そんな横山やすしさんは1996年1月21日、アルコール性肝硬変により自宅で死亡。
1月24日に行われた葬儀の様子は大々的に報じられましたが、実はその場に”野中和夫”の姿もありました。そして、親友代表として以下の弔辞を残しています。
雄二よ、今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に(競艇で)走ろう。その時は古いエンジンも持って来たる。
師匠はプロペラの名手「松本進」
野中和夫の師匠は、愛知支部14期レーサー「松本進」元選手である説が濃厚。
本人の口から師弟関係を話した情報は見つからなかったものの、当時のことを記した文献では”2人の深い関係性”を示すエピソードがいくつも残されています。
ただし、裏付けのある情報ではないので、事実として周知するのはお控えください。
松本進さんは2016年1月4日(74歳)にお亡くなりになりました。
弟子は佐野隆仁・倉谷和信
野中和夫の弟子は、58期「佐野隆仁」・60期「倉谷和信」の2人。いずれも大阪支部の選手。
佐野隆仁が最初に弟子入りしたのは、野中の親友”横山やすし”さん。ただ芸人ではなくボートの弟子で入門し、住み込みでレーサー業の修行。後にプロレーサーを勧められ、1986年にデビューを果たしています。
二番弟子の倉谷和信は、4度のG1を制した実績豊富なベテランレーサー。若手のホープ「関野文」は元妻との間に生まれた娘です。
野中和夫がモンスターと呼ばれた理由
野中和夫は”モンスター”と呼ぶにふさわしいレジェンドレーサー。その愛称がつけられた凄すぎる実績を紹介します。
通算SG優勝回数17回(歴代1位)
強さを示す指標でもある「SG優勝回数」。その実績において、野中和夫の17回は2位以下を大きく突き放すかたちで断トツの歴代1位です。
現役のみで見れば、松井繁はちょっと厳しそうですし、瓜生正義もここ最近はパッとしない感じ。現時点で記録更新を期待できそうなのは石野貴之・池田浩二ぐらい。
野中超えを期待したいけど、17回という回数は圧倒的すぎる…
歴代2位の52歳6ヶ月でSG制覇
順位 | 選手名 | 優勝時の年齢/大会 |
---|---|---|
1位 | 安岐真人 | 52歳7ヶ月(メモリアル) |
2位 | 野中和夫 | 52歳6ヶ月(オーシャンカップ) |
3位 | 野中和夫 | 51歳6ヶ月(グラチャン) |
4位 | 安岐真人 | 50歳8ヶ月(ダービー) |
5位 | 野中和夫 | 49歳11ヶ月(グランプリ) |
50歳を過ぎてグランプリとオーシャンカップ、40代後半でグランプリを制覇。
40代前半で優勝するレーサーは沢山いますが、ベテランと言われる50代でSG覇者になったのは「安岐真人・野中和夫」の2人だけです。
B級でSG優勝&7冠グランドスラム達成
1996年7月、海の日の誕生を記念して「オーシャンカップ」の第1回大会が開催。
実はこの時、前年のフライングでB級へ降格。ただ、オーシャンカップの出場条件は”PG1・G1・G2優勝戦の成績”だったことで、基準をクリアして選出されます。
開催当時、52歳を迎えていた野中は順調に勝ち進み、植木通彦がインに座る優勝戦をまくりで勝利。
このVで当時7つだったSGグランドスラム達成となりました。
競艇史上、B級でSGを制したのは野中和夫のみ。
二度と破られないであろう1976年の記録
- 優勝率:78.1%
- 期間勝率:9.53
- 連続V回数:6節連続優勝
- 年間優勝回数:16回
- 1着回数:152回(237走)
野中和夫が1976年に残した記録は”伝説”として刻まれており、優勝率78.1%・期間勝率9.53・年間優勝回数16回は、達成してから30年間破られていません。
まず、現代のようにSG・G1で点増しがなかった時代。それで勝率9点台は控えめに言ってヤバすぎです。
そして、出場したレースほぼ負けなしだったと思われる年間16V。一般戦のみなら今後達成する選手は現れるかもしれませんが、16勝の約半分は”G2以上のタイトル”で優勝しているのです。
- SG笹川賞
- SG全日本選手権
- G1大村周年
- G1蒲郡周年
- G1徳山周年
- 下関施設改善
- G1常滑周年
- G1福岡周年
- G1びわこ周年
上記の伝説こそ「モンスター(怪物)」と呼ばれるきっかけだったのでしょう。
生涯獲得賞金18億5,537万円
2024年5月現在、競艇界の生涯獲得賞金1位は「松井繁」で40億円超え。その額には遠く及びませんが、そもそも今と昔では賞金額が全く異なります。
分かりやすい例を挙げると、第1回の賞金王決定戦(現グランプリ)の優勝賞金は3,000万円。2024年度の約4分の1しかなかった時代。
さらに、伝説として語り継がれる1976年の獲得賞金はなんと…
軽く2億円を超えていると思いきや、たったの6000万円程度。
物価の違う当時と比較するのは難しいですが、もし現代に野中和夫がいたら松井繁の獲得賞金を超えていた可能性は十分あるでしょう。
実績のみで比較するなら「野中和夫>松井繁」と評価する人も沢山います。
麻酔なしで4針縫ってレースに参戦
モンスターと呼ばれていた頃、2回走りの1走目で転覆。その際、右眼の怪我と打撲を負ってしまい、通常なら適切な処置をして途中帰郷する状況。
しかし、野中和夫が放った言葉は…
先生、後半のレースがあるんですわ。なんとか走りたいんで、なんとかしてくれませんか。
麻酔をすればハンドル操作に影響が出てしまうため、その場で眉毛を剃り落して4針縫合。
医師ができる処置は終わったものの、右目の視界はほぼゼロだったらしい。それでも隣の選手についていくかたちでスタートを切り、視界のある左目だけで奇跡の勝利を手にしました。
今村豊「辞めるまでに追いつけない存在」
優れた実績もさることながら、周りの選手たちからも”別格”と評されていた唯一無二の存在。
数えきれないエピソードがある中、艇界のプリンス「今村豊」氏はこう話しています。
辞めるまでに追いつけないなっていう存在。だから、肩を並べたとか並べれないとかそういうレベルの問題じゃなくて。人それぞれ「この人は雲の上の人」って思うことがあるけど、ほんとそういう存在。
一時代を築いた今村豊がこれほど認めた選手は、後にも先にも野中和夫ただ一人。
50歳目前にしてモンキーターンを取得
1993年頃から今では当たり前になった「モンキーターン」が台頭。それまでのターンよりよりスピードが求められる競技と変革を遂げていきます。
ベテラン選手にとっては驚異となる新しい旋回技術。モンスター野中和夫も例外ではなく、勝つためには必須とまで言われていました。
そんな中、後に不死鳥と呼ばれた「植木通彦」に頭を下げ、モンキーターンを一から教わったそうです。
これまで数々の偉業を達成してきた野中和夫。そうした肩書がありながら、自分にないものは後輩・ライバルであろうと教えを乞うひたむきさ。
実際にモンキーを伝授した植木通彦曰く…
教えた次の日の朝一番、もう練習してたんですよ。それ見た時は感動しました。
こんなにも貪欲に勝つことだけを考えている選手、今の競艇界にどれほどいるのだろう?
野中和夫の引退・現在について
2009年11月に引退。引退理由は?
2009年11月18日、福岡競艇で行われたトークショーイベントにおいて引退表明。その後、12月10日に引退届けを提出し、12月19日の賞金王決定戦開催期間中に引退セレモニーが実施されました。
引退理由は「まだ走りたい気持ちはあるが減量が利かない体になってきた」と、野中本人が口にしています。
また、Wikipediaに記載されている引退時のコメントがこちら(一部省略)。
自分の人生は、本当に競艇一筋のものでした。
故横山やすし氏から「俺の代わりに競艇選手になってくれ」と言われたのがきっかけですが、故笹川良一前会長をはじめ、住之江競艇場の関係者の皆様にはことのほか面倒を見ていただき、また全国のお客様から長きにわたり熱いご支援をいただいたことが、一競艇選手としての誇りであり心の支えであったと思います。
選手として引退はしますが、選手の立場を離れて別の視点からより多くの人に競艇の様々な魅力を伝えていきたいと考えております。
引退後は競艇の発展に貢献し、現在は隠居生活か
2024年5月現在、野中和夫がボートレース関連のイベントに参加している情報はありません。
引退して数年間は競艇場で開催されたトークショーに出演し、最も新しいコンテンツは2022年2月のYoutube動画。おそらく、そのゲスト出演が最後だと思います。
最後に、40年間の現役生活お疲れさまでした。
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